[社長インタビュー 第1回]

100年企業も最初はチャレンジから!

2011/6/22

中野BC株式会社
代表取締役専務 中野幸治
インタビュアー:越石一彦

品質の高いものを造れば認められる

中野BC株式会社は、昭和7年から続く酒造会社だ。近年は日本酒だけでなく、焼酎、梅酒、また梅を使った健康食品など幅広い展開を見せている。特に梅酒にブルーベリーやいちごなどの果実、ゆずやみかんなどの果汁を組み合わせた「カクテル梅酒」が人気を博し、5年間で梅酒の売上25倍増という驚異的なヒット商品となった。その裏には、創業者から3代目となる中野幸治専務によって吹き込まれた若い感性があった。親子3代にわたって引き継がれる「100年企業」。企業を継続させるその力にはしっかりとした哲学がある。

自分を保証してくれるものは『人間力』だけ

――まずは、事業概要について教えてください。

和歌山を拠点とした酒造会社です。「長久」という日本酒が長くご愛好いただいている商品ですが、新しい銘柄の「紀伊国屋文左衛門」の原酒は、先日、世界最大級の酒類品評会IWC(インターナショナル ワイン チャレンジ)2011で金賞を受賞するなど、高い評価を得ています。

また、和歌山という土地柄、梅を扱った商品が数多くあります。なので、日本酒で培った醸造技術を生かし、梅酒、梅果汁、梅を使った健康食品などを販売しています。清涼飲料水やガムなどに混ぜる梅果汁の販売シェアは約80%に達します。最近は、梅酒のイメージを変える「カクテル梅酒」がヒットしまして、この5年間で梅酒の売上が25倍にも伸びました。

――会社は中野専務の祖父が創業されたのですね。

はい。祖父は大工の息子で、あまり裕福とはいえない環境で育ちました。その頃、近所に酒蔵とか、しょう油の醸造蔵などがいくつもあったのですが、総じて地元の名家でした。それで祖父は、酒造りとかしょう油造りという仕事に憧れを抱き、酒は免許制だったので、まずはしょう油造りから始めました。

――最初の資金はどうされたのですか?

いや、ほとんどなかったと思います。祖母が幼い父を背負いながら、せっせとしょう油を瓶に詰めていたと話していますから、個人事業といいますか、すべて自分たちでやっていたようです。祖父はもともと大工でしたから、道具や器械もすべて自分で作ったと聞いています。

祖父はしょう油造りについてまるっきり素人だったのですが、これがうまくいくのです。当時、和歌山には濃口しょう油しかなかったのですが、祖父が造ったのは薄口しょう油でした。他にないものだったので、珍しいし、おいしいということで評判になりました。

――新しいもの、他にないものにチャレンジしていったのですね。

いろいろと他人からアドバイスされたそうですが、ほとんどその真逆のことをやったそうです。孫の私から見ても、祖父は自由すぎるほど自由といいますか、既成概念にまったくとらわれない人で、自分の中に一本芯があるというか、とても頑固でした。

――人と同じことをしてもダメだということがわかっておられたのでしょう。既成のものとは違った、何らかの付加価値が大事だと。

そうです。自分しかできないことはなんだろうと常に考えていたようです。

――しょう油で成功して、今度は酒造りに挑戦することになるわけですが、普通に考えれば、しょう油で成功しているのだからそのまましょう油造りを続けようと思うはずですよね。酒造りに変えていったのには何か理由があったのですか?

しょう油の需要はもうこれ以上伸びないという判断だったと思います。半分は、酒造りに対する憧れが強かったのかもしれません。しょう油造りで「品質の高いものを提供すれば多くの人に認められる」という考えを強く確認できたので、「いい酒を造れば必ず認められる」という信念があったと思います。

ここでも祖父は大工の腕をフルに生かして、道具や設備を手作りしていきます。まずは焼酎を造るのですが、焼酎を造るには蒸留塔という背の高い設備が必要になります。この蒸留塔は背が高ければ高いほど、純度の高い焼酎ができます。祖父は地元でもっとも高い、だいたいビルの5~6階(約22メートル)くらいの高さがある蒸留塔を自分で作りました。それで質のいい焼酎を造ることができたのです。

自分の会社にがく然としたこと

――そして、会社をさらに大きく成長していきます。

会社は、焼酎でも成功し、酒造権を獲得したことによって、いよいよ清酒の製造を開始します。昭和51年には和歌山県で清酒の売上高がナンバーワンになるまで上り詰めました。それから、みりんやスピリッツ(蒸留酒)の製造なども手がけていきます。この醸造技術を生かすことで、さまざまな製品分野を開拓していくのです。どんどん会社が大きくなっていきました。

――一方、中野専務は、まずは宝酒造に入社されていますが、どういう経緯で入られたのですか?

将来はやはり3代目として中野BCに戻ることを想定していましたので、修業という意味もありました。父と宝酒造の社長とが知り合いでしたので、「息子を鍛えてやってください」というようなやりとりがあったのだろうと想像しています。

――宝酒造での「修業」はいかがでしたか?

本当にとても勉強になりました。大きな会社ですが、トップシェアではないのです。なので、社員全員がトップを目指してものすごくがんばっている会社でした。本当にみんな、めちゃくちゃ仕事していましたよ。時間の長さだけではなくて、真剣さとか必死さとか、そういうところです。

私の上司にものすごく仕事に厳しい方がいまして、ちょっとでも甘い仕事をしたら理詰めで逃げ道をふさがれるように叱られました。当時は「鬼」だと思っていました(笑)。しかし、部下の手柄を自分のことのように喜ぶ、厳しさのなかにやさしさがあふれる上司でしたね。

――そして、中野BCに戻りました。そのとき、違いのようなものは感じられましたか?

お恥ずかしい話ですが、うちの会社の社員たちは宝酒造と比べたら、本当に働かない人が多いと思いました。仕事中の私語も多かったですし、のん気といいますか、評判のいい「長久」というお酒のブランドにあぐらをかいて、がんばって上を目指そうという意欲がまったく感じられなかったのです。正直、これはダメだと思いましたね…。

今回は、中野BCの会社概要、創業から現在までの流れと、中野専務の入社までの経歴などについて伺いました。次回は、酒造りの責任者「杜氏」や、ヒット商品開発の秘けつなどについてお聞きします。
投稿日:2011年6月22日
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