前回は、サラリーマン時代の苦悩と栄光、そして独立までの道について語っていただきました。今回は会社立ち上げ当時の苦労と成功、そして強い信念をビジネスにどう活かしたのかについて語っていただきます。
――会社を辞めて、すぐにパソコンのコンシェルジュサービスの会社を立ち上げたわけですか?
いえ、最初は違ったことを考えていました。前の会社にいたときのお客様に「何か良いビジネスはないか?」と相談したときに、「パソコンのリサイクルビジネスがかなりうまくいっている。」という話を聞いたのです。車で音楽を流して団地に行って、いらなくなったパソコンを回収し、部品を取り出して組み直し、また団地に売りに行くというものでした。
丁度家庭にブロードバンドが普及しはじめ、「パソコンが一家に一台」の時代が到来すると予感していたので、すぐに始めようと思いました。ところが、やろうとしていた大阪の吹田市では、スピーカーを鳴らして車を走らせるのは条例違反だとわかったのです。
条例に違反したビジネスをやるわけにはいきませんので、これは断念しました。でも、パソコンという切り口は悪くないなと思っていたのです。それで思いついたのが、パソコン版の自動車修理フランチャイズチェーンでした。
――前の会社での事業がイメージにあったのですね。
はい。それでいろいろ調べて、今の形の原型みたいなものができました。当時はこれで完璧だと思っていましたので、早速、店舗を借りて、人を集めて、営業を開始しました。チラシも200万枚くらい刷って宣伝しました。ところがオープンしてみると、200万枚も配ったのに、問い合わせはたったの3本。店舗に来店する人は皆無でした。
――それはきついですね!
本当に、最初の1~2年はきつかったです。毎日、銀行の通帳とにらめっこしていました。いつ資金が尽きるのかと。
前の会社でもらっていた給料と貯金を元手に、すべて自己資金で開業したのですが、あっという間にお金がなくなってしまいました。当然、自分の給料は取れませんし、部長以上は給料遅配とか、そんなこともありました。
――これまでの年収との落差は相当なものだったのでしょうね。
妻には言えませんでした。まあ、わかっていたとは思いますが。その頃、まだ子どもが小さくて、三輪車を欲しそうにしていたのですが、そんなお金があったら会社に入れろという状態でしたから、もちろん買ってあげられません。以前の収入を考えたら「何でこれくらいのものが買ってやれないのか…」と悔しいやら情けないやらで、涙がでてきましたね。事業の目処は立たないし、銀行はお金を貸してくれませんし(笑)。
――事業が上手く行かないときは、なかなか銀行も厳しいですからね。
そうなのです。それで困り果てて、最後の望みで国民生活金融公庫(国金)に行きました。事業計画書を見せて一生懸命に説明しました。本当に必死だったと思います。未だに、残高を見て青くなっている夢を見ますから。
その必死さが通じたのか、たまたま担当の方との巡り会わせが良かったのか、当時、国金は担保なしでは貸さなかったのですが、奇跡的に事業計画書だけで満額まで出していただいたのです。
今その事業計画書を見たら、「よく、これで貸したなあ。」と思うようなものですから、明らかに熱意を加味してもらったのだと思います。あの担当者の方がいなかったら、今の私も会社もないですね。本当に感謝しています。



これは今だからわかるのですが、「今よりも楽になるから」とか、「今が不満だから」みたいな気持ちで、他人の力を当てにして自ら道を切り開こうとしない人がいたらベンチャー企業は会社として成立しません。
いろいろなサービスを考えてはいるのですが、一番大事にしたいのは、規模の拡大をしてもサービス品質を落とさないことです。人を増やせば、どうしてもサービスのレベルが今よりも落ちがちです。そうならないように、社員教育をしっかりとやっていきたいと思っています。



