― 旅館業をはじめるきっかけは?
昭和54年に僕の父親がこの旅館を買いとって、その父親が急に他界したので引き継がざるえなかったんです。ただ、引き継いだときには破綻寸前で、以後大変な苦労をすることになるんですが。
― 小さい頃は旅館が嫌いだったとか。
子供の頃は、旅館だけは絶対やりたくないと思っていました。旅館が大嫌いでしたから。
小さい頃、家族を旅館にとられたって思っていましたね。うちは4人家族だったんですけど、4人全員で食卓を囲んだ記憶が4回しかないんですよ。
それがあまりにも嬉しかったので、今でもそのときのメニューを鮮明に覚えています。
それと、旅館をめぐって父と母がいつも言い争いをしていましたね。
旅館に関していい思い出がないんです。
― その頃の山水閣はどのような旅館だったんですか?
典型的な当時(90年代前半)の旅館でした。
旅行代理店経由の団体客中心で、夜は宴会、コンパニオンもあげるし、カラオケもあるし、忘年会もガッツリやっていました。
そこで展開される光景がまた最悪だったんですよ。
いつも見る旅館の光景というのが、酔っ払った旅館のお客さんがコンパニオンさんのお尻をさわって喜んでいる姿ですから。
子供心にも、格好悪いなって思って軽蔑してました。
大人ってこうじゃないはずだって。
働いているスタッフも全然尊敬できなかったんですよ。
団体の宴会が入れば、飲ませとけばいい。飲み放題プランでビールをどんどん出して、飲ませたもの勝ちみたいにして、それでお客様が嘔吐したものを清掃している姿。
その姿にとても違和感を感じていました。
― お父様が亡くなってその嫌いな旅館を継ぐんですよね。お父様が亡くなったのは片岡さんがおいくつのころですか?
大学2年の時です。
ただ、すぐに旅館を継いだわけではなくて、旅館は母親に任せて、身勝手にも僕はサラリーマンの道を進みました。
不謹慎ですが、むしろ、父親が亡くなったときに、「これで旅館を継がなくていいな。」とまっさきに思ってしまいました。本当は、多額の借金もあって簡単なことではなかったんですけど、世間知らずでしたから。母親に引き継いでもらって、母親が適当なタイミングで旅館をたたんでくれるんじゃないかと。そうすれば、「僕は僕の人生を歩くことができると・・・」と勝手に思っていました。
それで21歳の時に、大学を中退して、通信関連の販売会社に就職しました。
― すごい強烈な会社に就職しましたよね。
超強烈な会社でした。話題にもなっていましたし。
国際電話と国内電話を安くなりますよといって、いわゆる新電電の営業ですよね。アダプターを無料で設置させてもらいにいって、回線の獲得数で勝負していくというやつです。早朝7時45分に出社すると、社員全員が壁に向かってセールストークのロールプレイをしていて、それが20分ほど続いて、それが終わると今度は全員で円陣を組んで腕立てを始めて。それが朝礼なんですよ!
「泣き言なんか言わないで、根性根性ど根性!俺がやらなきゃ誰がやる!よし、いいか!」
「はい!」
と、これがめちゃくちゃ気持ちが盛り上がって快感でしたね。
それで営業やってみたら、どんどん数字が上がりました。天職だなって思いました。あっという間に営業成績が社員700人中ベスト10に入ったんですよ。3ヶ月でチームリーダーになって、部下8人位持たせてもらって、最初の1年で 「マンションでも買おうかな」 というくらいの給料になっていました。
― でも、結局旅館にもどることになりますね。
取引銀行の支店長から突然電話をいただいて、うちの旅館が「破綻」するといわれたんです。
びっくりしました。
それまで、僕はきれいに閉められるものだと思っていました。旅館を。
ところが、いきなり破綻といわれました。
「お母さんが1人で頑張っているけど、後継者がいなくては、運転資金を貸そうにも貸せない。だから破綻するしかないぞ。」
それを聞いたときに、目が覚めました。
というか情けなかったですよね。勘違いしていた自分が。
それまでは、東京でサラリーマンをそこそこうまくやっていて、それが全て自分の力だと過信していました。実は、母親が一身に苦労を背負って、僕に自由な時間を与えてくれていたのにですね。
もどろうか、どうしようかと半年間ずっと悩み続けて、結局、清算しに帰ると覚悟を決めました。自分が一体何ができるか、何の力になれるかはわからないけれど、母親がたった1人で山水閣を閉じるよりは、せめて僕がそばにいてあげれば心の支えぐらいにはなるだろうと。
僕が24歳のときでした。
【次号】第3回:やりたくないことのルールを決めて、それから解決策を考えました。